『ネクスト・ロック・ゲート』
“ライトノベル”の終着点
掲載:2014/6/16 11:00
先日、早川書房の『SFマガジン』の表紙に“ジュブナイル”という文字を見かけて立ち止まってしまった。
“ジュブナイル”とは少年少女向けの読み物という意味なのだが、現在では“ライトノベル”に置き換わっており“死語”だと思っていたのに、早川書房においては死んでいなかったのだ。
「ひょっとして、自分の認識が間違っていたのか?」と思い、スマホにインストールしている辞書を引いてみた所、やはりこの認識は短絡であったらしい。
“ジュブナイル”と“ライトノベル”は文芸用語として、同義語になっていない――。
とは言え、“ライトノベル”の意味は青少年向けのエンターテインメント小説。
“ジュブナイル”との境界は曖昧で、何をどうすれば“ジュブナイル”あるいは、“ライトノベル”に分類されるのかが分からない。
とりあえず言えるのは、自分が中坊だった頃、今の“ライトノベル”みたいな小説は無かった――誤解や反発を恐れず、さらに言うと、漫画やアニメのような口絵や挿絵が添えられて、軽妙なセリフのやりとりが大半を占める、プロットを書き出せば400字詰め原稿用紙1枚に収まるような内容の薄い活字本は無かった、という事です。
漫画やアニメ、ゲーム化を目標、あるいはそれらとのメディアミックスを前提として書かれた小説が“ライトノベル”という事でよいのだろうか? で、その終着点はパチ・スロ化――そう定義すると、あらゆるエンターテインメントを縦断してるんだから“ライトノベル”って凄いかもしれない。
ただ、青少年層の中でも、明らかに読解力の低い読者も読めるように書かれている本だけに、このジャンルの読み物に長く留まるのは危険だとも思う。
軽妙な文字の刺激から、画、音、光の刺激に移り、仕上げはギャンブルの刺激じゃ廃人コースだ。
その意味で象徴的だと思ったのが、冲方丁最後の“ライトノベル”――シュピーゲルシリーズの展開。
シュピーゲルシリーズ
例えば、超少子高齢化による人材不足のため児童に労働の権利を与え、障害を持つ児童を無償で機械化する政策が発表された近未来という舞台は、このジャンルの読者層が好む「女の子に戦わせる」ための設定であり、科学考証上ありえない世界ではなく、社会倫理的にありえない世界である。
正直、『オイレンシュピーゲル』も『スプライトシュピーゲル』も1巻目を読むのは辛かった。
ドキドキしたいっしょー! 肘の灼刃(ヒートブレイド)で両断 / いじめないでぇーっ! 連結式爆雷(チェーン・マイン)をぽいぽい投擲 / ご奉仕させていただきますわよーっ! 12.7mm超伝導式重機関銃を掃射、といったキャラクター造形を含め、やはり“ライトノベル”というのは一般向けエンターテインメントとは少々毛色の異なる小説のジャンルだな、と――。
しかし、2巻目以降になると文体に変化が出始め、元々、差別・貧困・テロリズムなど現実の社会情勢が盛り込まれていた事と相まって読後感がまるで違う。
だんだん腹の中に重いものが溜まるようになって行き、最終章『テスタメントシュピーゲル』に至っては一般向けエンターテインメント小説同様、作中の挿絵すら無くなってしまっている。
レーベルは“ライトノベル”なんだけど、本の体裁が“ライトノベル”じゃないのだ。
ふと、これには廃人コースからの出口が提示されてるような気がしてしまったり――。
何はともあれ、シュピーゲルシリーズ。
『テスタメントシュピーゲル1』以降、長らく中断しておりましたが、ようやく2巻冒頭のプロローグがツイッターに投下されました。
自分が読み始めたのは幸い最近ですが、リアルタイムで読んでいた読者など、1巻のあのラストから5年近く待たされたわけですから大変だったでしょうね。
「早よ書けや、おらあ~っ!」と暴れたくなった人が何人いた事か……。
とりあえず今は、機械化された四肢を持つ障害児・特甲少女たちの未来に幸あれと祈るばかりです。