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【すぐる】
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『実践報告室(777)』
TOUGH BOY
掲載:2013/3/13 12:45

ども、こんにちは。

3月11日に俺も原子力事故のことを書こうとちょっと調べものしたら興味深い記事が色々とあってついつい読みふけってしまい、気がついたらブログ書く暇なくなっていたすぐるです。

書こうと思ったのは東日本大震災の福島原発のことではありません。

さすがにあの事故をもう忘れてしまった人はいないでしょうし、当時を知らない子供達にも教えられていくことでしょう。

では、数年前にも福島・茨城が放射能汚染の恐怖に震えた原子力事故があったのを覚えていますか?


時はまさに世紀末の1999年9月30日。

茨城県の東海村という原発を含む原子力関係の事業所が集まっている地域にあるJCOという会社で臨界事故が起きました。

粉状の物質から原発の燃料になる溶液を作っていたらしいのですが、本来の装置を使わずにバケツで溶かして沈殿漕に入れていたそうです……。

その結果、原子炉でもないところで長時間に渡り核分裂が起き周囲に放射線が飛散。

これまで日本では原子力事故で住民に避難要請が出た例はなかったが、知らせを受けた村長は国や県の指示を待たずに独断で村民に対して退避するように呼び掛けたそうです。

その後に報告を受けた国が半径10km圏内の屋内退避要請、及び道路や鉄道を封鎖。

しかし中性子線は数km先まで飛んでいて周辺の住民も被曝。

その数、認定されただけでも667人。

これほどの事故ですら人々の記憶からは薄れてしまってるのではないでしょうか?

俺はよく覚えているんですよ。

友達が原子力関係の仕事をしていて、東海村に働きに行っていたから……。

ニュースで事故を知った時、慌ててその友達の安否を確認したくて連絡しましたから。

するとその友達には特に被害もなく自宅待機中とのことで一安心。

世紀末に放射能とはまるで北斗の拳だなとか、白髪になって死兆星見えちまうよとか冗談を言っていたのを思い出す。

その後その友達はそこの仕事を辞め地元で再就職し、今は結婚してすくすく育っている男の子もいます。

当時は「ビビりだから逃げ帰ってきたよ。」なんて言っていましたが、放射能の不安を抱えるようなところで子育てしたくないというような考えもあったのかもしれません。

当然の思いですよね。

この事故の日付などをちょいと調べるつもりだったのですが、事故の状況を詳しく説明したものからまともに被曝した作業者の経過観察の記録、そして現在の医学ではまともにそれを治療できないから中途半端な延命措置など苦しみを長引かせるだけだとわかっているのにあの手この手で患者を生かさなくてはならない医師や看護士達の苦悩などまでが記事になっていました。

ちなみにこの原子力事故のレベルは4。

国内で初めて原子力事故によるまともな退避要請があり、そして亡くなられた人も出てしまったという当時最高レベルの原子力事故。

そう、2年前のあの日までは……。

震災の福島第一原発も初めはこれと同様のレベル4と発表されたが後にレベル5に修正、そしてより詳しい調査などをし1ヶ月後になって最悪最高レベルの7と発表されました。


東海村にも原発はありますが、そこは震災の時にどうだったのか?

ここも津波によりディーゼル発電機のあるところが浸水はしたがなんとか2台だけ稼動を維持、冷却ポンプの運転を保てたそうです。

実は2007年に津波の想定高さが改められたのをうけ、防波壁をより高くする工事をしていたそうです。

その工事がとりあえず終わった日付が2011年3月9日。

なんと震災の2日前ですって。

もしこの工事をしていなかったら茨城の水戸方面も福島原発と同じようになっていたとのこと。

逆にいえば福島原発でもより高い津波に耐えられる工事をしていればレベル7なんてことにはならなかったかも、しれない……?

予想を遥かに越える10m級の津波が直撃したといいますから、それでも気休めだったかもしれませんけどね。


それにしても。

扱いには厳重・細心の注意が必要で一歩間違えば大惨事。

現在の科学では処理できず、人の体を蝕めば内部からDNAレベルで破壊し、それを治療する術もない。

そんなエネルギー、よく使おうなんて思いますよね。

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